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コウミ ヴァイヴス

 
KOUMI100のテーマ

 

 最後の急カーブを登り切ると、なだらかなストレートの斜面の先にYellow Gateが待っている。距離にしてせいぜい300mだろうか。毎度、最後の力を振り絞って走り切る。道路脇の駐車場に早朝から集うヤンキーたちの視線も気にせずに、嗚咽に近い呼吸を散らす。登りきったあとに待つストレートは何回挑んでも永遠に感じる。今日のトレーニングが終わっても、また来週の火曜日にはこのメニューが待っている。そんな火曜日の早朝の閾値走も、9月最終週でいったん一区切りとなった。ストレートを走りきってYellow Gateにタッチしたら、本番まではテーパリング。睡眠を優先して、つかの間のリラックスタイムを過ごすことができる。

思い返せば初めてトモさんと朝練をしたのもYellow Gate。あの時は開始数分で情けないほど動けなく、トモさんの背中も霞んでいたけど、今はなんとか輪郭くらいは見えるようになってきた。本格的にトレーニングを再開して4ヶ月半、再起動のきっかけを作ってもらい、さらにこの短期間でここまで走れるようにしてくれたコーチには心底感謝している。

3年ぶりの100マイルレースを目の前にして、正直いくらか不安はある。過去2回はペーサーとして参加したKOUMI100。2周で相当疲れたのに、5周走れるイメージはまだわいてこない。屈強な選手が苦しんだ姿を覚えているので、自分が耐えられる想像ができていない。でも、久しぶりに味わう不安と期待と緊張の入り交じる、レース前特有の空気が気持ち良い。この心境も含めて、心身ともにレース特化したことを実感している。トレーニングの日々は運動と回復の連続で、レースがはじまれば静けさと苦しみを行き来して、終わってみれば達成感と反省が待っている。しっかり準備ができたという条件付きの、レース直前にしか味わえない、この浮遊感がずっと続けばいいなって気持ちもどこかにある。

ろくにレース経験がないながら気取ったことを言うけど、理想とする走りのイメージだけはしっかりある。スタートしたらゴールまで、凪のように穏やかに、自然に溶け込んで身体だけが動いている状態になれたらいいと思っている。もちろん、160kmも走れば疲労はするし痛みもかかえるだろうけど、最後まで集中してリズムを刻んでいる状態をいつか味わいたい。そんな美意識に近づけるように、日々トレーニングしている。UTMF2023を目標に、そんな表現に近づけるようになりたい。

理想のレース像はあるものの、今回のKOUMI100に関してはそれとは違ったレースにしたい。2020年・2021年と、自分が過去2回ペーサーをした岩垂スカイウォーカー氏(どれだけ強靭な選手かは、<100miles 100timesのテング24耐 - 後半>のエピソードをチェックだ。ジャッキー・ボーイ・スリムが大暴れしているけど、スカイウォーカー氏のエピソードに集中だ!)が今回はペーサーをしてくれる。おまけに友人もわざわざ小海までサポートにかけつけてくれる。チームで一喜一憂しながら、ゴールまでたどり着きたい。しっかりと完走して、一緒に喜びたい。上がったり下がったり、落ち着いたり苦しんだり、周回ごとの抑揚を楽しみにしている。

 

 

夜の過ごし方


ベース期、エンデュランス期と比べてレース特化には苦労した。1回あたりの強度が下がる分、レース特化は一番スムーズに行くと想像していた。ひとつは週末のトレイルランの時間が伸びて、トレーニング間の回復がいっぱいいっぱいだった。さらに、ウルトラ特有のペースにアジャストすることに苦労して、トレイルを走るスピードがオーバーペース気味になっていた。頭で望むペースが身体には遅く感じるようで、ペースをおとすとかえって疲れる感じがした。これについてはロングトレイルで動き続けるのではなく、短いトレイルのシャトルランでペース管理することで慣れていくことができた。

もうひとつは単純にまとまった時間が取れず計画通りに進められないことがフラストレーションだった。最終的には計画の組みやすさを理由に夜走ることにした。ただ、本当は夜に走りたくなんかない。ご飯を食べて風呂に入ったら、そのまま布団で寝たいタイプだ(これが普通だ!)。家族が寝静まったころにガサガサと動きだして、ヘッドライトをつけて走り出すのは一般家庭の風景ではない気がする。そこしかないから走る訳だが、どうしても夜道は怖い。30秒に1回くらい、後ろから肩を叩かれるようなシーンを想像してしまう。

サロモンアスリートのリッキー・ゲイツによる著書<アメリカを巡る旅 3,700マイルを走って見つけた、僕たちのこと。>にこんな一節がある。

ー 僕は旅の早い段階で、動物や人を怖がらないようにしようと決めていた。必ずしも望ましいとは言えない信念だ。それでも、僕はこの決意のおかげでより自由に、好きなように行動できるようになったので良かったと思っている。いったん決心してみると、それがどれだけシンプルなことかに驚いた。ただ決める、それだけだ。 ー

自分はこんなふうに考えたことがなかったから驚いた。はたして決めるだけで怖がらないようになるんだろうか。夜に限らずとも、ひとりで山にいる時に茂みからガサっと音が聞こえるだけでハートレートが一気に上るタイプだ。反面、怖いものに馴染んでいく心地よさを、経験として知っていたりもする。リッキー・ゲイツの信念に倣うように、自分も決心して夜のトレイルに出かけるようになった。

何度か通っているうちに不思議と慣れてくるもので、ナイトトレイルでも動けるようになっていった。きっと動きやすい条件を見つけたことが好転の理由だったんだろう。ひとつは夜に動きやすい地形をみつけたこと。自分の場合は上り下りのはっきりしたコースが合っていた。もうひとつは小雨のときは走らない。日中なら気にならない雨も、夜の場合は集中力を欠く要因になりやすい。視界が悪かったり、雨の音で注意が散漫になるとあまり良いトレーニングにならない。そんな時は一層走らない方が良いと気づいた。

暗いことが理由なのかはっきりしないが、夜の場合は個体性がはっきりしていた方が集中できることに気づいた。傾斜がある方が運動に集中できるし、天気が安定している方が自分の身体と空気の境界をはっきり感じる。これが曖昧になってくるとすごく動きづらい。明るい時間帯はまったく考えたことはないが、不思議と夜中はどこまでが自分の身体で、どこからが空気なのかわからなくなることがある。

ある日、一冊の本を見つけて手にとった。東京工業大学教授で美学者の伊藤亜紗(東京都八王子市出身)による著書<目の見えない人は世界をどう見ているのか>だ。美学という観点から身体性に関連した研究をされている。身体性を言語化する過程で、自分との違いがはっきりしている対象を観察することにたどり着き、目が見えない人の世界について、実体験をもとに綴られている。

空間認識について、身体の動き、感覚について触れている中で興味深かったのは運動について。ブラインドサーフィンの競技者でパラリンピックのメダリスト葭原滋男は視覚を使わずに波に乗る。それは足裏に伝わる感覚を大切にするという。著者がインタビューのなかから、『波や自転車に乗ることは「音楽にノる」「リズムにノる」ことに似ていて、身を任せている状態と』表現していることが興味深い。また、視覚が優位に働くと立体的なものを正面から見たように平面で捉えたり、表と裏のような概念が生まれる。目が見えない場合には死角がなく、三次元的な認識になるという。

ノンフィクション作家で探検家の角幡唯介は<裸の大地 第一部 狩りと漂泊>で白夜の時期にグリーンランドを冒険した記録をまとめている。この冒険では、食料の補給は動物の狩りのみだったので偶然性の支配と、エネルギーの枯渇が文字通り死活問題だった。狩りができなければ食料が枯渇し、つまり現実として死が待っている。白夜なので暗くならないなか、1日は24時間周期で最低限度を下回った食事をしていた時、ふと26時間周期にずれたところ食糧の残量問題が改善されたようだ。目が見えない人の世界然り、認識をかえると夜に走り方もかわる気がする。そんなことを考えながら、ひとり山の中で夜を過ごす。

レースによっては行動時間の大半を暗がりですごすこともある。UTMFはまさにそっちのタイプだ。夜を夜と捉えずに、最適な動きのヒントを探すこと。実はKOUMIの隠れたテーマはそれだったりする。